今回の新国立競技場の建設をめぐる騒動の潜在的な原因のひとつに各世代によって、オリンピックが持つ、位置付けの違いがあると思います。

前回の東京オリンピックは太平洋戦争によって焦土となってしまった国からの復興のアピールと国際社会への復帰の象徴であり、戦争に負けた大きな傷を払拭するためのイベントといっても過言ではなかったと思います。

そう考えると、まさに、国を挙げての国家プロジェクトだったと思います。

想像ですが、国民ひとり、ひとり、ほぼすべての国民もそのことに対して了承していて、反対意見は皆無で、心の底から応援、協力すべきイベントだったと思います。

ある世代から上の人の心の中には、オリンピック=国家プロジェクトだから予算はどれだけ掛かっても許されるべきもので、反対意見があるはずがない。
という思い込みがあったと想像できます。

1963年札幌生まれの私にとっては、1972年札幌で開かれた冬季オリンピックへの人々の異様な熱気や大きく変わり行く札幌の町並みを見て育ちましたので、1964年の東京オリンピックへの期待の大きさ、イベント性は、なんとなく想像がつきます。

ところが、2020年の東京オリンピックは、東日本大震災からの復興といった意義はあるのでしょうけど、全国民が1964年の東京オリンピックに感じた思いとは、まったく異なり、ひどい言い方をすれば、日本で開催されるうちスポーツイベントのひとつに過ぎません。

このような状況の中で、他国で行われたオリンピックのメインスタジアムの何倍もの予算を掛けることは、もはや不可能・・・ということが、想像ができなかった人達が建設の意思決定の中心にいたのかなと感じました。

「ゼネコンは儲けゼロでやってもらいたい」という浮世離れした言動もありましたが、この発言をした人も、オリンピックの持つ意味が、すでに1964年の大会とは、大きく違っていることが見えていない人だとわかり、とても驚きました。

国がたった2,500億円も用意できないのか?という発言もありましたが、今は、用意できる状態ではないことも、この方はわからないことが悲しいです。